
福岡市の郊外に佇む看板のない幻の広東料理店 予約が取れない「中華杉本」の驚くべき“香り”の料理 中華杉本(福岡市西区)
福岡市西区の住宅街。地下鉄の最寄り駅からもタクシーが必要な、レストラン立地としてはとんでもなく不便な場所に、「中華杉本」はある。独断するが、この店、日本屈指の広東料理店である。屈指ってつまりは五本指に入るって言いたいわけだ。その理由は、おそらく食べてもわからない。なぜか。説明しよう。
いやはや「書きたくない」お店です
2度目の来訪である。最初に訪れたとき、その感動を書こうとして、あげく断念したのは、杉本の広東料理について語る言葉が、身のうちになかったからだ。それは今も変わらないのだけれど、でも、誰かが書かねばなるまい。恥を忍んで、背伸びすることにする。そして、書くと決めたからには、徹底して書く。だから、長いですよ。
敷居ではなくて「ハードル」が高い
さて。
外れと言っても、福岡市の中心部からだと車で30分ほどなのだが、高台の住宅街の中の普通の一軒家。実に行きにくい。もう、この時点で覚悟が問われるわけである。「それでも、来るのか。そうまでして食べたいのか」と、主人(あるじ)から問われている……気がする。これが「ハードル1」。

店であることを表現しているのは、ここだけ。ピンポーンと押すと、鍵を開けてもらえる。階段を上がって、2階のリビングが食卓である。
さらに、予約が取りにくい。昼と夜、それぞれ1組。予約はけっこう先まで詰まっているので、こちらが店の都合に合わせなきゃならない。うん、「ハードル2」。
予約は6人まで。でも、「じゃあ、二人で」というわけにはいかないのが人情というものである。できれば4人は集めたい。あるいはそれ以上。「ハードル3」。
料金は2度の経験から言って、コースに飲み物を含めて1万5000円から2万円といったところか。コストパフォーマンスはかなりいいと思うけど、この絶対値だけで「高い」という人も少なくない中で、美食にお金が使える人を集めるのは、それほど簡単なことではない。ね、「ハードル4」。
それに、家庭のようなテーブルを囲むスタイルなので、気のおけない人でなければ宴は成立しない。はいはい、「ハードル5」。
この5つのハードルを軽やかに、あるいは必死に飛び越えた人だけが、杉本のテーブルにつけるのである。今回も跳躍力に長けたクレイジーなみなさまとともに、シャンパンで乾杯(カンペイ)。ほほ、いい感じの開胃(カイウェイ)だ。では、始めましょう。
あ、ちなみに杉本さんのお人柄は、とにかくやわらかで、おやさしくて、外連味がなく、つまり敷居は低いのである。

この日の品書き。正式名称はこの画像から読み取ってほしい。そう、中国語の繁体字だから変換で出てこないものが多いのである。
杉本の中華は香りを食べるのだ
前置きが長くなった。いざ、食べよう!
行くぞ、一品目。
「糸島産茄子の揚げ物 ニンニク和え」

パプリカのかすかな苦味が茄子の甘みを引き立たせる。
時は初夏、茄子がうまくなってくる季節である。
給仕される前から、ニンニクの幸せな香りが漂い、食欲が刺激される。十分に鼻を喜ばせた後、目の前にした熱々の茄子を前歯で噛む。衣はカリッとガリッの中間で、かなり硬め。だからこそ、衣の中で十分に蒸された茄子の柔らかさが引き立つという設計だ。ニンニクはあれほど香るのに、味としては極めて優しい。
あ、そうだ。先に書いておくと「杉本」の広東料理は、香りが命である。塩味と油は控えめ。雑味がなく、だから香りが際だつ。
「いやいや、あぶらっこくて、しょっぱいのが中華でしょ」というあなた。ええ、ぼくもそう思います。そう思うんだけど、いや、その視点では、100回食べても「杉本」の良さはわからない。これが「食べてもわからない」と言った所以である。誤解を恐れずに言うならば、美食の体験が少ない人には、「物足りない中華」と判断される可能性が高いだろう。
本当の「上湯」の魔力、魔力、魔力
そんなことを話していたら、ほら二品目だ。
「糸島牛内腿肉と絹豆腐入りのとろみスープ」

「神様、ぼく、このスープ、いつまでも食べ終わりませんように」と必死で祈ったが、すぐに小碗は空になった。
上湯(シャンタン、広東語だとショントンと発音したほうが近いかもしれない)。これ、澄んだスープ「清湯(チンタン)」の中でも高級なものを指す表現だ。
杉本の上湯の材料はすごい。薩摩地鶏の丸鶏(ガラじゃないぞ!)、糸島の豚の背骨とスネ肉、博多和牛のモモ肉とスネ肉、そして、もちろん金華ハム。そのほかいろいろと6時間、沸騰し過ぎないように、くつくつと丁寧に丁寧に炊き上げて仕上げる。
この上湯があらゆる料理に使われ、香りと味の元になる。ここなんだ。杉本の料理を支えている重要なポイントである。この香り高い上湯が、通奏低音になるわけです、はい。
今日のスープは包丁で叩いて挽肉状になった牛のもも肉が入って、さらに味を濃くしているが、いやはや、やはりそもそもの上湯が力強く成立しているから、その海に牛の香りと味が自由にサーフィンしているのだ。「ああ」と声が漏れる。これは、言っておくが、漏れざるを得ないわけで、いやむしろ漏れない人とは友だちになれない。
ほんと言うと、「ああ」じゃなくて、「嗚呼」です。わかりますよね、「嗚呼」って書きたくなるくらい、吐息だってマジなんです。
中国にも存在しない最高の蒸し魚料理
三品目。
「玄海産活けアコウの姿蒸し 上湯と醤油のソースかけ」

ああ、なんと美しいお姿。頭の骨まで完全に分解してしゃぶりつくした。

蒸される前のアコウさま。
中国料理の中でも蒸し魚は好物なので、日本でも中国でも、かなり食べてきたつもりだ。その上で言うが、杉本のそれが最高である。一番である。理由はソースのベースになる上湯の香り、香港の牡蠣油に加え、たまり醤油、薄口醤油が日本人であるぼくの舌に合うというのはあるだろう。
しかし、実はね、一番は、その蒸し加減なのである。もう、魚の身が膨らみ切っているのだ。ふるふるとやわらかく、膨らんでいるのだ。そして、骨の周辺だけが、ほとんどギリギリで生に近い状態。新鮮なアコウの身が、ぼくの知るどの調理法よりもふっくらと、甘く、まるく、やわらかに、やさしく仕上がっている。
主人に訊いた。
「いったい、どうしてあのように最高の状態で蒸し上がったとわかるんですか」
「まあ、結局のところ、わからないんですよね。最後はね、『ここだ』って決める」
「その決め手は?」
「目がね、飛び出るんです。その飛び出た具合っていうかね。何回も見られないからね。だいたいのところで蓋を開けて目を見るんです。で、考える」
「個体差があるでしょうからね」
「そう、だから、もう最後はね、決めるしかないんです、ここだって」
ぼくは、「杉本」以上の素晴らしい塩梅の蒸し魚を他に知らない。
百歩譲って、中国人との価値観の違いかもしれない、と言ってみよう。彼らはミディアムからウェルダンを好み、日本人はレアからミディアムレアを好む、ということかも。でも、ぼくにとっては、杉本のそれがベストだ。いや、本音を言えば中国の一流の美食家が舌を巻くと思うよ、この蒸し加減にはね。
完璧なイカの弾力とまたもや上湯が!
四品目。
「活けヤリイカと糸島産ブロッコリの上湯 にんにく風味炒め」

福岡に生まれてよかったね、の新鮮な活けイカだからこその弾力。
おおぶりに切られたヤリイカは、さっと油通しされて、言わばアルデンテ。ぷりんとふんわり膨らんでいる。ああ、この他にはない噛み心地よ。
ブロッコリは上湯(出ました、上湯!)でしっかりと煮込まれていて、香りと味を含みまくっている。この二つがニンニクと生姜をキューピッドに、フライパンの中で恋に陥ちるわけだ。ね、どうなるかを、想像してください。これ、ある意味で、「和えもの」だな、と思ったときに、日本料理の伝統とつながって、脳内でさらにうまくなる。
火を入れない卵と腐乳の魔力
五品目。
「香港製腐乳と葱入りの滑らか卵炒め」

キラキラと輝く卵って、ああ、なんと蠱惑的なのでしょう。
腐乳は豆腐を発酵させたもので、そのまま食することもあるが、一般的には調味料として使われる。主人は香港の「これだ」と思ったレストランの自家製の腐乳を分けてもらっているのだという。やさしく上品な発酵臭。
さあ、調味料はこの腐乳だけ。油を馴染ませ、熱した中華鍋に卵を入れると、すぐに火を止め、あとは鍋を静かに回しながら、余熱だけで調理をしていく。このふわふわふんわりは、だから実現することらしい。
「おおお、おいしい」「なに、このやわらかさ」「ああ、鼻に抜けていく香りがたまらん」「塩味がなんともちょうどいい」。卵とネギだけの料理ですよ。それで人が沸き立つって、ほんとすごい。
福臨門の「季節限定のメニュー」を再現!
六品目。
「佐賀麓赤鶏と鹿児島産石川里芋の磨豉醤入り土鍋煮込み」

土鍋の力もあるのだろうけど、火の通り過言がベストなんだ。どの料理もそうだが、焼き加減、煮加減、揚げ加減、蒸し加減。つまり火の通し加減の天才なんだな、杉本さんは。
鹿児島の「石川里芋」は、今頃が旬だというから驚いた。小ぶりなそれは、早生品種で夏場がうまいのだという。中国でも同じような種があって、旬の時にだけ、香港の福臨門で出されるのがこの料理だというのだ。話を聞くだけで、もう、耳がおいしい。
磨豉醤という調味料を意識するのは、ぼくは初めてで、豆系の味噌だが、いやはや、これは鶏肉によく合う。小ぶりな里芋はさっくりと歯応え良く、でも、噛んでいくと、少し粘りも出てきて、取り合わせの妙であった。そうそう、この鶏も丸鶏を仕入れて、主人がさばいたものだ。
ハムユイの炒飯が日本で食べられるなんて!
七品目。
「香港産塩漬け発酵魚と海老入りの炒飯」

一粒一粒が独立していながら、でもどちらかと言えばしっとり。
咸魚、あるいは鹹魚と書いて、「ハムユイ(ユとイの中間)」と発語する。発酵食品である。臭いのだけれど、これを上手に調理すると、とんでもない旨味に変わる。杉本では、まずは丸のまま蒸して、さらに生姜を載せて蒸して、さらにピーナッツオイルで焼いて香ばしさを加えるのだという。
このハムユイが味の基盤となった炒飯。ええ、もう、それはたまりませんよ。海老がね、あの海老がですよ、「俺、食感を演出する脇役に徹しますんで……」と頭を下げるくらいだ。ここまでたっぷり食べてきたのに、お替りが3杯できる感じだ(ありませんよ、お替りはね。念のため)。

何度も思い出したいので、もう一回、見ておこう。
美しい胡麻のスープがデザート
八品目。
「煎り黒胡麻裏漉しの暖かいスープ」

はあ、なんとも滋味深い。そうか、こういう食事の終え方があったのか。
暖かいデザートは中国料理で何度も経験したけれど、「スープだけ」というのは初体験だった。これが、なんとも落ち着く。香港の氷砂糖を使っているという甘みは、やはり控えめで、それでいて存在感があって、「まだ食べられそうだ」というはやる気持ちを抑え、エンディングを軽やかにいろどってくれた。
あなたは杉本にいける人間なのか
世の中には2種類の人間がいる。杉本に行ける人と、杉本に行けない人だ。
久しぶりの贅沢だった。財布や、忙しさと相談が必要だし、それに5つのハードルを超えなきゃだけど、本当は季節ごとに訪れたい店だ。えっ、行きたい? もし、あなたに“資格”があるのならば、きっとその機会は訪れることでしょう。ええ、ご一緒できるのならば、最高ですね。
そうそう、メインの画像は前回行った時のダック。いや、これがまた秀逸で……って、杉本談義は終わることがありません。
ライター
鶏肉屋の三男として生まれたせいで幼い頃から飲食店が近しい存在で、飲めるようになってからは一日も酒を欠かしたことはなく、立飲みから高級店まで、まあ図々しく呑み喰い語る日々。今日も反省なく喰らう、喰らう。
■店舗情報
店名 | 中華杉本 |
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ジャンル | 広東料理 |
TEL | 092-812-0208 |
住所 | 福岡県福岡市西区生松台3-5-2 |
交通手段 | 地下鉄橋本駅から車で約10分 |
営業時間 | ※完全予約制 |
定休日 | 要問い合わせ |
