
遠くても、嗚呼、通ってしまいます。 那珂川の天ぷらに食通たちが唸る訳。 旬菜 天ぷら たけうち(那珂川市)
福岡市内で暮らす人に言わせれば、食事の場所として那珂川市は遠い。車で30分ほどとは言え、精神的距離があまりにも遠いのだ。「美味しい店ならば、近くにいくらでも……」が本音。つまり、それが「掛け替えのない店」でなければ、まず訪うことはない。『旬菜 天ぷら たけうち』に、なぜ福岡の食通たちは通い続けるのか。
N医師からの不敵な挑戦状
物語は会食の席でのぼくの不用意な一言で始まった。
「福岡って行きたい天ぷら屋さんがないんですよね」
その一言に「モテる」で名高い……いや、研究の独自性とベンチャースピリッツで業界の内外から高い評価を集めるY医師が即答した。
「そうそう、お昼に安く食べられる、博多の天ぷら文化は素晴らしいけど、料理として楽しむとなると、やっぱり、お江戸だよね」
話はそこで終わるはずだったのだが、在宅医療の未来に人生の全てで挑むN医師の眼鏡の奥の、普段は優しい瞳が、鈍く光った。
「お二方、それは那珂川の『たけうち』を知っての発言でしょうね」
テーブルを囲んでいた気の置けない諸先輩方も、静かにうなずいている。今振り返れば、そう、もうこの瞬間に雌雄は決していたのである。
あな怖ろしき九品のアテ

すっきりとした店内にも店主の気質が表れている。
完全予約制のカウンター8席に、あの日、宴を供にした8人が座る。「さあ、始まりますよ」。N医師が勝利の笑いを噛み殺すようにつぶやいた。店主は……失礼ながら、仏頂面を絵に描いたような表情で、一見客が易々と近づける雰囲気ではない。静かな緊張の中で、一品目。

「胡麻豆腐を松葉蟹の餡で」
「胡麻豆腐を松葉蟹の餡で」。とくに感想はないけれど、出汁と胡麻の風味に胃が開いた感じ。正直、「ふーん、今日はこんな感じか」と思った。不遜だけど、本音。二品目。

「石鯛の刺身」
「石鯛の刺身」。ああ、ねっとりと白身魚の旨味を噛む。噛む。刷毛でぬられているのは、普通の醤油ではない。なんだろう。聞きたいけれど、店主との心の距離が遠すぎて声を掛けられない。三品目。

「赤むつの昆布締めとヤリイカ」
「赤むつの昆布締めとヤリイカ」。握り鮨のようなスタイルで、シャリの部分がヤリイカだと考えてほしい。赤むつの甘さとヤリイカの甘さが相乗して、さらにお互いを甘くしながら、咀嚼のたびに旨味が重なって分厚くなっていく。それを日本酒でさらに増幅すれば、これぞ背徳の味。
なんというか、ぼくの中では、ここで潮目が変わった。この宴席がN医師との勝負であるとしたら、一気に劣勢に立たされたわけだ。続いて四品目。

「天草のコハダ」
「天草のコハダ」。ここが天ぷら屋であることを忘れてしまいそうな完成度のコハダ。丁寧な仕事ぶりが、その上品な酸味と甘みの絶妙なバランスからうかがえる。それにしても、このシャリ、赤酢と塩だけなのでは? ちょっと硬めの炊き方といい、人肌の温度といい、店主は東京での修行経験があるのだろうと推察したけれど、心の距離が縮まらず聞けない。そして五品目。

「サワラとふぐの白子、牡蠣のオイル漬け」
「サワラとふぐの白子、牡蠣のオイル漬け」。どう食べるか。考えさせられる一品。ぼくの解釈では、ふぐの白子をソースと考えて、少しずつつぶしながら食す。途中、ほんのりと温められた牡蠣をかじって目先を変え、さらに牡蠣にも白子をまぶして旨味の複層化を楽しんで、またサワラに戻る。ま、この食べ方が正しいかどうかは置いといて、頭を使う楽しい一皿だった。まだまだ出てくる、六品目。

「長崎の本カツオ」
「長崎の本カツオ」。藁で炙ったカツオ。このタレを拭うようにして、カツオにすべて纏わせて、ちょうどよい味わいになるという、その塩梅が素晴らしい。店主の料理に総じて言えることだけど、塩度は低めでありながら、決して足りないとは感じさせない。ストライクゾーンをギリギリかするくらいの外角低め、みたいな塩加減が大きな特徴の一つだと思う。次は七品目。

「焼き蛤」
「焼き蛤」。堂々の大きさ。味の濃さ。ぷくぷくの身を心ゆくまで噛み締めた後、残った汁をすすれば、ここは天然の強い塩気をガツンと感じられて、日本酒のうまきことよ。八品目。

「蝦夷ばふんウニの巻き寿司」
「蝦夷ばふんウニの巻き寿司」。正直にいうと、これだけは感動がなかった。いや、美味しいんですよ。でもね、もっと旨味があると予想したからか。この前の蛤が良すぎたのか。美味しいんだけどな。それでは九品目。

「茶碗蒸し」
「茶碗蒸し」。中にはたらの白子。茶碗蒸し自体は薄味なのだけれど、上に載ったイクラと摘み海苔と合わさると、ああ、ほら、調ってくる。ただ、イクラはむしろなくてもいいんじゃないか、と思った。それにしても、茶碗蒸しはほっとします。落ち着きます。「はあ」と甘いため息が漏れたところで、いよいよ天ぷらだ。
そうです、ここまでが前哨戦。忘れてたでしょ。ぼくたちは天ぷらを食べに来たのだ!
天ぷらは耳を使って食せ
店主は一斗缶を持ち上げて、とくとくとくと、鍋に油を注ぐ。そうか、毎日、新しい油でスタートするわけか。ふと「油を入れるところから見るのは初めてのことだな」と思う。
ぼっとコンロの火がつく音がする。「さてと」という感じで、彼が冷蔵庫から取り出したのは、なんと生きた穴子。動くアナゴを見るのは、うーんと、これもまた初めてだ。神経を包丁で叩いて、てきぱきとしめていく様が頼もしい。
木枠の粉ふるいで小麦粉に空気を入れて、卵水で溶いていく。泡立て器で軽く混ぜる。「ほう、ここはあの太い菜箸じゃないんだな」と思った。間違いなく明確な理由があるはずだが、まだまだ心のディスタンスが邪魔をして聞けない。ちなみに揚げるときは金属製の細い菜箸で、それは理に適っているな、と思った。
そうこうしていると、鍋が音を立て始めた。カタカナで表記するのは難しいけど、強いて書くならば「ポヂン、ポヂン」という水滴が立てる音よりも、少し重たくて低い音。そこに鍋のヂン、ヂンという高い金属音が重なってくる。
いずれ間欠的だったポヂンは連続的なボツボツボツに変わって、店主が試しに落とした衣がジュワーと心地よい音を立てポリリズム。ステンレスのコンロガードで、動きは見えないのだけれど、音で何が起こっているのか想像するのは楽しいし、ああ、もう美味しい、耳が美味しい。BGMがかかっている天ぷら屋を信用しないのは、だって、天ぷらは音が美味しい料理だからであって、店主は瞬時に、自らが立派な演奏家であることを我々に理解させたのであった。ぱちぱちぱち。始まるぞぉ。
先輩、天ぷらって魔法だったんですね
天ぷらの一品目。

「車海老の足」
「車海老の足」。シュワー。高い音。さっくり噛んで、海老の香りを鼻の奥で楽しんだら、それを日本酒と舌の上で混ぜる。楽しいな。二品目。

「長崎産の車海老」
「長崎産の車海老」。ジュワー。さっきよりパワフルだ。カラリと揚っているが、エビの身はどこまでもしっとりとしていて甘くとろける。天つゆにつけたかったけど、塩だけで一本、食べ切ってしまった。
他のネタに対してもそうだが、店主は基本、ネタに直接、小麦をつけ、衣とバランスさせて揚げることで一品の料理へと仕上げていく。最初にどれくらいの量の小麦をどのようにつけるか、はたくかで、味の閉じ込め具合とか、外と内の火の入り具合を調節しているのだと思うが、もうこの頃になると、話しかけづらいとか、そんな理由ではなく、集中している彼の仕事の邪魔をしたくなくて聞けない。まあ、いいや。よし、天ぷら三品目。

「香川のキス」
「香川のキス」。ジュジュジュワー。その後ろにブヂブヂブヂブヂと、小さい連打。わお、この、音、たまらなく気持ちいい(もう、音についてはここまでにするので、後はそれぞれで想像してください)。どうですか、この肉厚なキス。ふんわりと膨らんで、噛めば、ふるふるとやわらかく崩れていく。ああ、天ぷらになるために生まれてきた魚、キスよ。ありがとう。感謝しながら四品目。
「レンコン」
店主、おもむろにレンコンを切り始める。きれいに皮を剥いて、衣をつけて、ジュワー。待てよ。レンコンの天ぷらは好物のひとつだが、かつて切り立ての揚げたてを食べたことがあっただろうか。またもや初体験である。ほらほら、レンコンの水分が一滴も抜けていない感じ。それでいてシャクリ、サクサク。参りますね、これは。
そうそう、レンコンは写真を撮り忘れた。いや、これまでも、写真を撮るのは本当に大変で、なぜなら天ぷらは親の仇のように、出てきたはなを食べるべきだからだ。だって、天ぷらは目の前に置かれた瞬間が完成で、それは料理人が細心の注意を払って計画、計算したもので、時間の経過とともに理想から離れていくのだから。ぼくは左手でスマホを構え、撮った瞬間、右手の箸でネタを掴み、口に持っていくようにしていた。でもね、レンコンの時は食べたい気持ちが急いてまさって、忘れちゃったんだろうね。続いて五品目。

「甘鯛」
「甘鯛」。どうですか。このグラデーション。天ぷら以外の調理法では、これは実現できない。揚がったウロコはさくっとカリカリで、最中心部は生なんですからね。とろけます。ぼくの舌のほうがとろけます。絶品。

「つぶ貝、青菜と南関揚げの煮物」
甘鯛の余韻に浸っていると、なんと箸休め的な一皿「つぶ貝、青菜と南関揚げの煮物」がやってきた。なるほど、世界一幸せな休憩だ。これも味付けが上品で、よろしゅおますなぁ。よし、これを機にと、いったん瓶ビールを注文して、苦味で舌をリセットする。いくぞ、天ぷら六品目。

「牡蠣」
「牡蠣」。岩手、大船渡の牡蠣は、下拵えの段階で薄めにのばされて、キッチンペーパーで余分な水分が抜かれている感じだった。しかしながら仕上がりは、こんなにふっくら。かつ、旨味は凝縮されているわけです。ね、天ぷらって魔法だ! そして牡蠣の天ぷらって、最高だ!
ここで畳み掛けてくるかと思いきや、七品目はスナップエンドウ。糸島の朝採れのそれは、サクサクなのに最高に甘くてみずみずしい。落ち着けてよかった。なにせ、ラスト二品が超強力だったからだ。行くぞ、八品目。

「椎茸とホタテ」
「椎茸とホタテ」。よく考えたな、これ。ありそうでなかった組み合わせ。海老のすり身はイメージできるから、ホタテだって発想としてはそう遠くないんだけど、肉厚の椎茸とともに口中でミキシングしていくと、むしろ椎茸の甘味のほうが強く意識されてくるから不思議だ。マッチングの妙、極まれり。ラストの九品目。

「アナゴ」
「アナゴ」。先ほど、ぼくのために天に召されたアナゴさん。いや、さん付けは、あまりにあの人をイメージしちゃうからよそう。アナゴさま、ですね。対馬のご出身だったんですって。では、合掌して「いただきます」。身が丸くふくらんで、今にも衣の中で破裂してしまいそう。噛めば、「サクっ」という美味しい音が、はっきりと耳の内側からと外側から聞こえて、清らかなのに濃い、あの味と香りが、ほろほろと舌の上で砕けていくのだった。
戦いは終わった……と思いきや、ここで「お食事」を選んでくれ、と店主。4択だったが、「天丼」と「天茶」以外は眼中になかったので忘れた(ごめんなさい)。でもさ、この選択、どうしますか。「新垣結衣と綾瀬はるか、どちらかを今すぐに選べ」と言われて、あなたはいったい、何を基準に、どんなロジックで決定できると言うんですか!
でもね、決めました。天丼に決めました。「天茶」はね、お隣の方のを、写真だけ撮らせてもらいましたよ。ああ、美味しそう。格言。隣の天茶はうまい。

この和出汁も味わってみたかった。
いいな。いいな。食べたいな。サクっが、しっとりに侵食されていって、最後はビロビロになるエロス。
ぼんやりそんなことを思っていると、やってきました、「天丼」です。これに味噌汁と香のものがつきます。

「天丼」
海老のかき揚げ。プリッとして、さっくりして、でも、一部はツユに濡れて、うん、こちらもなかなかのエロス。ツユ(ツメ)は、うん、やっぱりあっさりしてて、素材の味を邪魔しないように、見事に計算されていました。ああ、これを食べると終わってしまう。この幸せが終わってしまう。もう一度、最初に戻りたい。久しぶりに、そんなことを思った一席でございました。
デザートは「紅ほっぺ」。そのままが一番うまいってやつで、つまり、店主の考え方を最後に示したわけだな。ま、まだ話せてないので、こっちの勝手な想像だけど。

十分な甘さ、爽やかな酸味。そのままで完璧。
食事代は1万円。なあ、君、信じられるかい。アテが十品、天ぷら九品、天丼にデザート。飲み物代は別ですよ。いや、それでも……。また来るなぁ。通うなぁ。遠いけど。そっか、そっか、ここはみなさんにとって、やはり「掛け替えのない店」なんですね。
店主が見送りに店の外まで出てきてくれた。「心から満足しました」と言ったら、「よかったです」と答えてくれた。どこまでも簡潔に。でもね、彼はその時、ほんの少しだけだけど笑ったんだ。たぶん、ぼくたちは、いずれ、食に関して、もっと深く語り合うことになると思う。
余談だけど、別れ際、「参りました」と頭を下げるY医師とぼくに対する、N医師の笑顔を、その優越感に膨らみ切った小鼻を、ぼくは一生忘れない。
ライター
鶏肉屋の三男として生まれたせいで幼い頃から飲食店が近しい存在で、飲めるようになってからは一日も酒を欠かしたことはなく、立飲みから高級店まで、まあ図々しく呑み喰い語る日々。今日も反省なく喰らう、喰らう。
■店舗情報
店名 | 旬菜 天ぷら たけうち |
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ジャンル | 和食、天ぷら |
TEL | 092-953-1699 |
住所 | 福岡県那珂川市今光6-64-1 |
交通手段 | 高速太宰府インターより、車で20分。新幹線博多南駅より、徒歩で15~20分。 |
営業時間 | 12:00〜14:00、18:00〜22:00 ※完全予約制 |
定休日 | 月曜 |
